P--857 P--858 P--859 #1執持鈔    執持鈔 #21 (1) 一 本願寺聖人(親鸞)の仰せにのたまはく、  来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終まつこと来迎たの むことは、諸行往生のひとにいふべし。真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに 正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かるがゆゑ に臨終まつことなし、来迎たのむことなし。これすなはち第十八の願のこころ なり。臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願 のこころなり。 #22 (2) 一 またのたまはく、  「是非しらず邪正もわかぬ この身にて 小慈小悲もなけれども 名利に人 師をこのむなり」(正像末和讃・一一六)。往生浄土のためにはただ信心をさきと P--860 す、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべき ことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎら ず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、ま して凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきな り。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。さればわれとして浄土 へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源 空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべ し」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたら せたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてま つらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御 化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生 死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわ たくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たる を、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、わ れ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。そのゆゑは、 P--861 明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるが ゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとり ゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人 のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わた くしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するす がたなり。 #23 (3) 一 またのたまはく、  光明寺の和尚[善導の御こと]の『大無量寿経』の第十八の念仏往生の願の こころを釈したまふに、「善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増 上縁」(玄義分)といへり。このこころは、善人なればとておのれがなすとこ ろの善をもつてかの阿弥陀仏の報土へ生るること、かなふべからずとなり。悪 人またいふにや及ぶ。おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくよりほ か、あに報土の生因たらんや。しかれば善業も要にたたず、悪業もさまたげと ならず。善人の往生するも、弥陀如来の別願、超世の大慈大悲にあらずはかな P--862 ひがたし。悪人の往生、またかけてもおもひよるべき報仏・報土にあらざれど も、仏智の不可思議なる奇特をあらはさんがためなれば、五劫があひだこれを 思惟し、永劫があひだこれを行じて、かかるあさましきものが、六趣・四生よ りほかはすみかもなくうかむべき期なきがために、とりわきむねとおこされた れば、悪業に卑下すべからずとすすめたまふむねなり。さればおのれをわすれ て仰ぎて仏智に帰するまことなくは、おのれがもつところの悪業、なんぞ浄土 の生因たらん。すみやかにかの十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて三 途・八難にこそしづむべけれ、なにの要にかたたん。しかれば善も極楽に生る るたねにならざれば、往生のためにはその要なし、悪もまたさきのごとし。し かればただ機〔の〕生得の善悪なり。かの土ののぞみ、他力に帰せずはおもひた えたり。これによりて「善悪凡夫の生るるは大願業力ぞ」と釈したまふなり。 「増上縁とせざるはなし」といふは、弥陀のちかひのすぐれたまへるにまされ るものなしとなり。 #24 (4) 一 またのたまはく、 P--863  光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、 「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取 のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵 世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこの ひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすと き、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。しか れば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるる によりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。 かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心 求念」(礼讃)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母 のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきた ねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父と いひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへ て、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねな くは、あるべからず。しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もと P--864 なへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者な くは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちか ひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願 や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。本願 寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父まし まさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。 光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因 とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふる に、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他 州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。しかれば日輪の出 づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日 輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明 長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしる べし。 P--865 #25 (5) 一 わたくしにいはく、  根機つたなしとて卑下すべからず、仏に下根をすくふ大悲あり。行業おろそ かなりとて疑ふべからず、『経』(大経・下)に「乃至一念」の文あり。仏語に 虚妄なし、本願あにあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏 の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。もし弥陀の名願力を 称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本 願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆゑ に臨終にふたたび名号をとなへずとも、往生をとぐべきこと勿論なり。一切衆 生のありさま、過去の業因まちまちなり。また死の縁無量なり。病にをかされ て死するものあり、剣にあたりて死するものあり、水におぼれて死するものあ り、火に焼けて死するものあり、乃至、寝死するものあり、酒狂して死するた ぐひあり。これみな先世の業因なり、さらにのがるべきにあらず。かくのごと きの死期にいたりて、一旦の妄心をおこさんほか、いかでか凡夫のならひ、名 号称念の正念もおこり、往生浄土の願心もあらんや。平生のとき期するとこ ろの約束、もしたがはば、往生ののぞみむなしかるべし。しかれば平生の一念 P--866 によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、 かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、 そのときをもつて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。そもそも南無は帰命、帰 命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行 万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏 智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のな かに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分) と釈したまへり。また殺生罪をつくるとき、地獄の定業を結ぶも、臨終にかさ ねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念仏もま たかくのごとし。本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず 往生は定まるなりとしるべし。 #1執持鈔  [本にいはく]    [嘉暦元歳丙寅九月五日、老眼を拭ひ禿筆を染む、これひとへに衆生を利益せんが     ためなり。] P--867                             [釈宗昭五十七]   [先年、かくのごとく、予、筆を染めて飛騨の願智坊に与へをはりぬ。しかして、今   年暦応三歳庚辰十月十五日、この書を随身して上洛。なかの一日逗留、十七日下   国。よつて灯下において老筆を馳せてこれを留む、利益のためなり。]                              [宗昭七十一] P--868